フクチ@プログラミングと釣り好き大学生のブログ

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エストニアの支配の歴史を少しだけ

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こんばんは!
だいぶ前に、エストニアの歴史博物館に初めて行って来ました。
中の写真が撮れなかったので、外見の写真を少し。

歴史博物館って勝手に展示品がずらっと並んでるだけのイメージがあったのですが
空間デザインが凝っていて昔のヨーロッパのような空間を味わいながら展示品を眺めることができて楽しめました^ ^
Great Guild hall:http://www.ajaloomuuseum.ee/visiting/buildings/great-guild-hall

さてさて、
今回はエストニアの統治されていたの歴史の一部を少しだけ書こうと思います。

今は日本で色々と注目を浴びていてるエストニアですがその発展の背景にかなり前からの支配の歴史があります。

エストニア支配の歴史
以前の記事でも書いたようにエストニアは1991年に再独立を果たしたのですが
実は最初の独立日は1918年の2/14に一度ソ連から独立を果たしています。
しかし、たった20年ほど経った後に再びソ連に占領されてしまいます。

ただ、1938年以降の統治を違法とみなしていて、1991年8/20を独立回復記念日、1918年2/14を正式な独立記念日に制定しています。
上記はまだ1990年代の話ですが
それ以前には周りの諸国、ソ連、ドイツ、フィンランドなどなど、かなりの数の国に支配され続けていた歴史があります。

僕がここにきて一番聞いてびっくりしたのが1944という映画の話を聞いた時でした。


同国人同士が他の国のために戦った戦争

この映画のストーリーを少しお話すると、
1941年にナチス時代のドイツが不可侵条約を破りソ連に侵攻します。
それから1945年まで独ソ戦と呼ばれる戦争を起こします。

エストニアを始めとするバルト地方では当時、ソ連の統治の歴史から反ソ連の意識が根強くソ連に対して反発心を芽生えている人も少なくありませんでした。
そのせいか侵攻してきたドイツを当初、ソ連からの解放軍と思ってしまいます。

そして1944年に悲劇が起こります

両軍の兵士にエストニア人が駆り出されたのです。
正確に言えば、反ソ連からドイツ軍に入ったエストニア人と元々統治されていたロシアの赤軍側につき、同国人同士で戦うという結果となったのです。

もちろん、この戦争が当時のエストニアの独立に関わったわけでもありません。(実際にその後ソ連の統治が40年以上続きます)
ドイツとソ連の戦いにエストニア人が巻き込まれるという悲惨な戦争になっていました。


悲惨な戦争の後の独立と国の再建

それから数十年が経ち、1938年以降の秘密議定書:
独ソ不可侵条約 - Wikipedia
によるソ連の支配は違法であったことをソ連が認め
独立を高める運動も起きていき
ついに1991年にソ連の崩壊を機に再独立を果たしました。

そして再独立を果たした際にこれから国を存続させる上で何が重要かを考えました。
これから先も他の強国に支配される可能性はゼロではない。
多分、というか絶対に再独立した当時、エストニアの中心にいた人たちは国としての定義を改めて考えたんだと思います。

ちなみに国の定義として

一般的に、住民・領土・主権及び外交能力(他国からの承認)を備えた地球上の地域のこと---wikipedia

がありますが、

エストニアは侵略され続けた歴史から自分たちのものではなくなる可能性もある領土を捨て、住民、いわゆる国民が「私はエストニア人だ」と言えるような国への所属感を最優先にしたのだと思います。だからこそ、たとえ国土が占領されようが、国民が地球の裏側にいようが国としてのコミュニティを繋ぐためにITを利用したのだと思います。


こうやって大まかですが歴史を振り返ると
エストニアがなぜ国の定義から国土を捨てて、エストニアという国の概念を残す事を優先した背景がより鮮明になっていき、現在の国のあり方や目指す先に納得がいく気がしますね。

あ、現地のスタートアップコミュニティにも行ったので次回はエストニアのスタートアップについていくつか書こうと思います。

最後に...
先日の2/24にエストニア建国100周年を迎えました。
おめでとうございます!!
エストニアの公式サイトでも100周年祝っていますね。
https://www.ev100.ee/en/estonia-100-centennial-week

それではまた!